「瞬間を生きる」ことは心の免疫力を高めるために有効に働くと考えられます。
その理由は、正体の分からない不安や、失敗して後悔に苛まれている間は、頭の中は、自分が作り出した「過去」や「未来」を巡っているからです。そのことが自分のこれからにうまく作用するのであれば、「悩む」ということは長い人生において必要なことです。
しかし、ただ想念が自分が作り出した「過去」や「未来」を彷徨っているだけでは、想念は妄念へと変わるだけで、人生にプラスになることはほとんどありません。
ここで「時間」について簡単に整理してみますと、「過去」は過ぎ去ってしまってどうにもならないことであり、「未来」は未だ来ていないために、「~こういうものだ」と規定不可能な「何か」です。そのため、未来を予測したところで100%その予測が当たるということは決してありません。
なぜなら、予測したり推測したりするためには、過去の経験則が無ければならないからです。分かりやすく言えば、人が予測・推測する際には、必ず過去の経験則を基にしているために、何が起こるか分からない未来に対しては、どうすることも出来ません。
もちろん、経験則や過去のデーターの寄せ集めから未来に起きるであろうことに対して、対策を講じることは出来ます。しかしどんなに科学技術が発達したとしても、100%確実に未来を予測することは不可能なのです。
では「未来」に対して「過去」とは一体どういう性質をもっているのでしょうか? 実は「過去」についても人はどうすることも出来ません。なぜなら、あるひとつの出来事に対して激しく後悔したとしても、「覆水盆に返らず」ということわざがあるように、過去に遡ってやり直すことは出来ません。
また、自分の過去の記憶というものについても、過去の出来事を自分がしたいように改変・加工しているために、自分がもっている過去についての記憶とはたいして当てにならないものです。
そのため、純粋な「過去」も「未来」も人間の頭の中には存在せず、悩みや不安の原因になっている「過去」や「未来」は、自分の心が勝手に作り出した「想念」や「妄念」だと言えます。
それでは、「現在」とはどうでしょうか? 「現在」とは目の前に広がっている世界の<変化>です。世界は固定されているようでも、ただ自分が気づかないだけで、実は常に変化し、移り変わっています。その瞬間の変化を捉えることが「瞬間を生きる」ことです。
青空に浮かぶ雲の流れや、海を眺めた時に目に映る波の動き、風に揺れる木の枝など、探そうと思えば変化はいくらでもあります。しかし、そういった変化の瞬間を見逃してしまうのは、頭の中で必要以上に様々なことを考えているからです。
「瞬間を生きる」ことは誰にでも出来ます。なぜなら、あるがままの風景をあるがままに観ようとするだけだからです。
そのため、たまには時間に追われてばかりの生活をストップし、心を休めるために頭の中を空っぽにして、自然の風景が変化している様子をただじっと観察することをおすすめします。
すると、今まで気づかなかったことに気づくようになり、世界が立ち現れる瞬間は常に驚きに満ちているということが、次第に心のどこかで感じ取れるようになっていきます。
また、呼吸法や瞑想法は、そのような感覚を深める有効な手段ですし、忙しすぎて注意が散漫になった際にも、意識を<現在という時>に戻すのに役立ってくれます。
死に滅ぼされる存在者のはかなさと対照的に、存在の事実は、死による徹底不可能性を、かえって際だたせた。しかもそれはハパックス(永劫に唯一一回きり)。それを生きる機会は、永久に今ここにしかあたえられていない、一回きりの、取り戻しも代替もきかない瞬間である。つまり、多数の中の一ではなく、永劫に唯一比類なき一のままの不易の一である。
(中略)
そのような瞬間が、直線時間にいわば垂直に交差するような時間超脱的位相で、過去(始点)と将来(終点)とを自己産出―包摂するような噴水時間となって、いつでもどこでも一瞬一瞬、湧き出ている。
(古東哲明『瞬間を生きる哲学』p190―191)